毎月28日は『にわとりの日』|鶏の日パックがお得♪むしゃぶりつきたくなるフライドチキン誕生秘話【食の雑学】【食の記念日】

本日の一品
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毎月28日は『にわとりの日』

ケンタッキーフライドチキンが制定しました。

28日は日々の感謝を込めて特別価格のセット商品「とりの日パック」が販売されていいます。

日付は『に(2)わ(8)とり』の語呂合わせから。

皆さんは、お肉といえば何派ですか?僕は圧倒的に鶏肉派です。鶏肉派の僕としては、無性にあのフライドチキンにむしゃぶりつきたくなる時があります。鶏肉って脂が乗ってプリプリのもも肉ももちろん美味しいですし、ヘルシーなささみ肉も違った美味しさがあって良いですよね。もちろん牛肉も豚肉も美味しいですし魅力がありますが、部位毎に違った美味しさを楽しめるのは、鶏肉が一番だと思うのです。

本日はそんな鶏肉に則って、フライドチキンの特集をお届けします。

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フライドチキンの歴史

誰もが一度は口にしたことがあるのではないでしょうか?ハーブとスパイスの絶妙な組み合わせで味付けされたチキンは、創業から60年以上経った今も皆に愛され続けています。

その創業者もまた誰もが知る人物です。そう、カーネル・サンダースです。

ちなみにカーネル・サンダースのカーネルは名前ではなく名誉称号で、本名はハーランド・デーヴィッド・サンダースです。

カーネル・サンダースが築き上げたケンタッキー・フライドチキンの歴史について解説していきます。

カーネル・サンダース の生い立ち

1890年、インディアナ州でハーランド・デーヴィッド・サンダースは生まれました。

幼い頃に父親を亡くした彼は決して裕福とは言えない生活を送っており、母親は家計を支えるために工場で働いていました。そんな母親を支えるためにサンダースは6歳の時に料理を始めます。7歳の時に自身で焼いたパンが家族に絶賛され、「自分は料理をすることが好きなんだ」と気がつきます。

そしてその時の感動が「おいしいもので人を幸せにしたい」という後のケンタッキー・フライドチキンの理念へと受け継がれていきます。

彼自身も10歳の時に近所の農場へ働きに出るのだが仕事は長続きせず、すぐに解雇されてしまいます。また、12歳の時に母親が再婚しますが、義父と合わず家を出ています。家を出た後に年齢を偽り軍隊へ入隊するもすぐに除隊されます。その後も鉄道関係の仕事、保険の外交員、弁護士と様々の職場を転々としていました。

歴史上の偉人には苦労人が多いですが、カーネル・サンダースもまたその一人ですね。

経営者への第一歩

サンダースは自分が誰かに雇われるということに向いていないと思い経営についても考え始めました。その第一歩と言えるのが1912年、彼が22歳の時にフェリーの経営に共同経営であるが参加することから始まっています。これはオールド・アスマ号と名付けられたフェリーボートをインディアナ州のジェファーソンビルからオハイオ川を越えてケンタッキー州のルイビルまで往復させるという事業で、結果的にこの事業は成功を収めました。

しかし、サンダースは事業が本格的に軌道に乗る前に経営から手を引き、商工会議所で秘書の仕事を始めました。さらに商工会議所の仕事を約1年で辞め、ランプの製造販売も始めましたがすぐに失敗しました。

その後もミシュランタイヤのセールスマンを始めましたが、ニュージャージーにあった工場の閉鎖により解雇されています。

ここまでわかっているだけで様々な仕事を転々としており、とても成功者とは言えず、今を生きるのが精いっぱいといったサンダースでありましたが、最後のミシュランタイヤのセールスマンをクビになったことが大きな転換点となりました。タイヤのセールスマンをしていた頃に知り合った石油代理店の支配人に勧められ、ガソリンスタンドで独立することになったのです。サンダースがガソリンスタンドの経営を始めた頃、ヘンリー・フォードが低価格の大衆向け乗用車を販売し、それによって今まで「金持ちの玩具」として考えられていた乗用車が急速に普及していきました。そうした時代の流れに加え、サンダースの徹底したサービスが人気を呼んだことにより、彼のガソリンスタンドは繁盛していきました。

サンダース・カフェの始まり

経営者として順調にスタートを切ったかに見えたサンダースですが、この数年後に彼はこれまでの人生で最大の困難に遭遇することになります。

「暗黒の木曜日」です。

「暗黒の木曜日」とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価の大暴落が起きた日のことで、その後の「世界恐慌」のきっかけとなった日とも言われています。

これによる大恐慌の波は例外なくサンダースにも襲い掛かかり、結果として彼はガソリンスタンドを手放すことになりました。

しかし1930年6月サンダースはガソリンスタンドを手放してからわずか1年で新たなガソリンスタンドの経営を再開することが出来ました。ガソリンスタンドのシェルオイルがサンダースに対して新しく建てる予定のガソリンスタンドの経営の話を持ち掛け、サンダースは資金なしでガソリンスタンドの経営を再開することができたのです。

さて、経営を再開してしばらく経ったある日のこと、サンダースは旅行客の多くがお腹を空かせてガソリンスタンドにやってきていることに気が付きました。常に顧客に喜んでもらえるようなサービスを心がけていたサンダースは、物置として使っていた小さな部屋に家で使っていた机とテーブルと6つの椅子を置き食事の提供を始めました。

こうしてケンタッキー・フライドチキンの前身ともいえる「サンダース・カフェ」が誕生しました。サンダース・カフェではフライドチキンの他、ハム、豆、ビスケット等、割とシンプルでどこにでもあるような料理を提供していました。サンダースにとって「サンダース・カフェ」はサイドビジネスであったが、どんな料理も美味しさにこだわり、店内も常に清潔に保つことを心がけていました。

こうした徹底したサービスの提供を続けたことでサンダース・カフェは旅行者の間で人気になり、その人気は旅行者の間で「サンダース・カフェに寄らずに旅は終わらない」という言葉が生まれた程でした。

また、この頃にはすっかり地元では有名人になっていました。1935年、彼が45歳の時にケンタッキー州知事より「カーネル」の称号を与えられました。こうして彼はカーネル・ハーランド・デーヴィッド・サンダースとなり、この頃から私たちが知っているカーネル・サンダースと呼ばれるようになったのです。

サンダース・カフェが成功し、次に「旅行者は泊まれる場所を求めている」と考え、モーテルの営業も始めました。彼はモーテルのサービスや清潔感についても徹底しており、従業員は「モーテルだけど、サービスや雰囲気はヒルトンホテルに負けていなかった」と語っています。

また、この頃サンダース・カフェで人気であったフライドチキンをさらに美味しくするためにスパイスの調合・改良等を繰り返し行い、11種類のハーブとスパイスを混ぜたイレブンスパイスと圧力鍋を活用した現在のケンタッキー・フライドチキンの味を完成させました。

レストラン・モーテルの焼失

顧客が増え順調に売り上げを伸ばしていたカーネル・サンダースでしたが、またもやその全てを失う程の災難に遭遇します。それは1939年、カーネル・サンダースが49歳の時でした。10年以上の歳月をかけて築き上げたサンダース・カフェとモーテルで火災が起こったのです。彼はこの火事によって一夜にしてこの両方を失ったのです。幾度となく襲ってきた災難であったが、彼はこの時ばかりは「もうレストランはやめよう」と思ったといいます。

しかしサンダース・カフェを失った彼だったが、サンダース・カフェを慕ってくれる多くのファンが残っていることに気が付きます。彼は1941年に再び「サンダース・カフェ」を再びオープンさせます。しかも彼は1店舗で142席もある大型のレストランを作ったのです。

サンダース・カフェを再開させて15年間、彼は店を繁盛させたことは言うまでもありません。あまりの繁盛ぶりが噂になり、彼の店を16万4000ドルで買い取りたいという人まで現れました。この時彼の年齢は60歳を超えており、いつ引退してもおかしくない年齢でしたが、彼は何度も申し入れを断っています。

レストランの廃業

さて、1950年代になると第二次世界大戦が終わり、アメリカには活気が戻り、とても華やかな時代を迎えていました。そして、この時代のアメリカはあらゆるものが近代化していく。その一つがハイウェイです。当時の大統領アイゼンハワーは国中にハイウェイを建設する計画を立てました。この計画はケンタッキー州でも例外なく進められました。サンダース・カフェは国道25号線沿いにあったのだが、この国道25号線の迂回路が建設されたのです。

そしてこの迂回路が出来て1年も経たぬうちに国道25号線に変わるハイウェイの建設計画が発表されました。迂回路が建設されて店の売上が激減し、ハイウェイが建設されるとなるとどのような結果になるかは目に見えていたでしょう。

この時カーネル・サンダースは65歳を超えていました。そのため、また新しい店を作り1から始めるということは難しいということもわかっていました。そしてカーネル・サンダースは25年間で作り上げた店を売却し、年金生活で余生を過ごすことを決めたのです。

フライドチキンへの最後の挑戦

さて、年金生活を送ることを決めたカーネル・サンダースであったが、結局またフライドチキンの仕事を始めることになります。その理由ですが、カーネル・サンダースは年金生活を送るため自分の年金がいくらもらえるのかを調べたところ、なんと月105ドルしかないことが分かったのです。今まで滞ることなく年金を支払い続けていたカーネル・サンダースは、潤沢な年金支給額が確保されていると思っていただけに愕然としたといいます。

このままでは老後の生活が心もとないと感じ仕事を続けることを考えたが、もう自分の年齢を考えると店をまた作るというのは難しいことはわかっていました。

カーネル・サンダースはしばらく考えた後、あることを思いつきます。

店を持たずに自分のフライドチキンの作り方を他の店に売れば良いと考えたのです。

ケンタッキー・フライドチキンの誕生

カーネル・サンダースはこのビジネスについてピート・ハーマンという人にその話を持ち掛けることにしました。ピート・ハーマンとは1951年にシカゴで開催された全米レストラン協会の講習会で出会った人で、サンダースと同じようにレストランの経営をしていた人物です。

久々に会った友人に対し彼はフライドチキンを振舞いました。これを食べたピート・ハーマンはとても喜び皿に盛ったチキンをきれいに平らげました。そしてこのチキンの名前を「ケンタッキー・フライドチキン」にしようとピート・ハーマンはサンダースに提案し、カーネル・サンダースもこれを大変気に入りました。彼ならこのフライドチキンビジネスに興味を持ってくれるだろうと思い、この後サンダースはピート・ハーマンにフライドチキンビジネスの話をしました。

しかし、この日ピート・ハーマンが首を縦に振ることはありませんでした。それから2週間が経ち、ピート・ハーマンから返事を貰えていなかったカーネル・サンダースはもう一度説得するために彼の店へと向かいました。移動中の路面電車からピートのレストランを見つけた時、2週間前と彼のレストランが変わっていることに気が付きました。彼の店に赤いペンキを使いとても大きな字で「Kentucky Fried Chicken」と書かれていたのです。

カーネル・サンダースとピートは再開するとチキン1ピースについて4セント支払うというフランチャイズ契約を結ぶことになります。

そしてこれがカーネル・サンダースにとって第一号の契約となったのです。

ケンタッキー・フライドチキンの拡大

この後サンダースはケンタッキー・フライドチキンを拡大するために中古のフォード車に圧力釜とスパイスを詰め込み旅に出ることにしました。サンダースは良さそうな店を見つけては直接オーナーに自分のフライドチキンをメニューに載せてもらうよう交渉しました。時には自分でフライドチキンを調理し試食してもらうなど試行錯誤を繰り返しました。

しかしそんなカーネル・サンダースの努力もなかなか実らず、首を縦に振るオーナーは殆どいませんでした。一説には契約を断られた回数は1009回となったとも言われているが、70歳近いサンダースは諦めることなく交渉を続けました。

そんなカーネル・サンダースが考案したビジネスは簡単ではなかったが、1年間でなんとか7件のレストランとフランチャイズ契約を結ぶことができました。

その後フランチャイズ契約が増えることで彼のビジネスの評判は高まり、やがてカーネル・サンダースが訪問しなくても向こうから問い合わせが来るようになりました。

こうして65歳から始めたフランチャイズビジネスはわずか4年で約200店舗の契約を結ぶことができました。そしてこの頃からフライドチキンのお持ち帰り店ができ、オペレーションマニュアルが作成され、どこでも同じ味が手軽に楽しめる今のファーストフード店に近くなっていくのです。

フランチャイズビジネスの売却

1963年には店舗数も急激に拡大し、600店舗を超えていました。カーネル・サンダースが74歳の頃、急拡大する自分のビジネスを見て「これ以上自分の手に負えない」と考えるようになりました。また、周りからの説得もありカーネル・サンダースは一生懸命築き上げてきたケンタッキー・フライドチキンを後にケンタッキー州知事となるジョン・ブラウン・ジュニアに売却することに決めました。この時の売却の条件は売却額が200万ドル、また彼の一生涯の報酬として年間4万ドルと今後も彼がビジネスに関わっていくことを約束するという内容で氏た。

こうして彼が努力を重ね作り上げたケンタッキー・フライドチキンは彼の元を離れていくのです。

ケンタッキー・フライドチキンとカーネル・サンダースのその後

彼は経営権を渡した後もケンタッキー・フライドチキンの顔として世界中を飛び回離ました。

日本にも3度足を運んでいます。

彼は90歳で生涯を終えるまで自分が愛したケンタッキー・フライドチキンを世界中のファンに届け続けたのです。さて、その後のケンタッキー・フライドチキンであるが、1986年にペプシコーラ等で知られるペプシコが買収することになります。

そして1997年8月にペプシコは自社のレストラン部門を「トライコン・グローバル・レストランズ」としてスピンオフ(会社を分離新設すること)させ、2002年名称を「ヤム・ブランズ(YUM)」に変更し現在に至ります。

また、現在ケンタッキー・フライドチキンは2019年2Q時点で店舗数を23,118まで伸ばしています。

まとめ

以上が、フライドチキン、ひいてはケンタッキーの誕生秘話となります。意外だったのが、ケンタッキーフライドチンの礎を築いたのはカーネル・サンダースとはいえ、店舗自体は最初からフランチャイズ形式をとっていたことです。とはいえ、若い頃から培った経験には凄まじいものがあり、このバイタリティは是非とも見習いたいものですね。

フライドチキンの美味しく、僕たちを魅了してやまないのは、カーネル・サンダースその人の人生をかけた努力の結晶だからこそかもしれませんね。

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